長谷川摂子さんと絵本作家

【第12回】瀬川康男さん|物語を絵にする時、文体の感じをつかまえたい。

きつねのよめいり何を絵に表現するか
長谷川 昔話などの物語を絵本になさる時に、絵として一番表現したいと思っていらっしゃることは、物語の中の何なのでしょう。
瀬川 やっぱり、文体だな。文体の感じをつかまえたいね。線の極小部分から、色彩の極小部分まで、その文体とぴったり合ったのを探したいね。
長谷川 なるほど、“文体”。文体って、物語の語り口とか、文章の香りとか、全体に匂っている雰囲気のようなものですね。そうすると、瀬川さんの最初の絵本『きつねのよめいり』の時から、次々と絵が変わってきて、だんだんと絵が様式的になってきているのは、私は、物語の何を絵に表現するかという瀬川さんの姿勢が少しずつ変化してきたせいかと思ってたんですけど、そこのところは変わっていない?
瀬川 変わってないでしょうね。
長谷川 文体を絵に表現するという瀬川さんの考え方、瀬川さんの絵を思い浮かべると、なんか納得しちゃいますね。でも、“文体”というふうに言われると、ストーリーのおもしろさについてはどうですかと、うかがいたくなる。
瀬川 あんまり気にしないね。受動的なのね、きっと。あたうる限り、相努めますっていう姿勢じゃないかな。
長谷川 さっき、線の極小部分から、色彩の極小部分までと、おっしゃいましたが、今度は、絵や色彩について、もう少しお聞きしたいですね。堀内さんは、インタビューした時、色彩について、「色っていうのは喜びですよね」って、おっしゃったんですけど。
瀬川 あ、キザ。
長谷川 キザかもしれないけど、瀬川さんにも聞いてみたい。色とは何か、線とは何か、瀬川さん流の定義を。
瀬川 ぜんぜん分かりませんね。
長谷川 なんだか分からないという感じですか。
瀬川 うん、うん。ただ、それを手がかりにして進むよりしょうがないから、使ってるだけでね。それが道具だとも思えないし、変なもんですね、あれも。
長谷川 そうですか。
瀬川 うん。線自体だって、色彩があるしね。で、色面にも、やっぱり線があるし。そういうことを考えると、非常に分からなくなりますね。だけど、自然そのものには、色彩はあるけれど、線はないやね。
長谷川 そこから考えると、線の方が、人間がかくという時の創造力が働く場であるような気がしますね。
瀬川 そうかもしれないね。
長谷川 でも、一方ではそうとも言えない。昔、ピカソの本を読んで、へえと思ったんですが、自然のままの色をそのまま写すのは、ばかがすることだ。色は理性が決めるんだって、ピカソは言っている。確かに、自然の葉っぱが緑だから、画面に、絵の具の緑色をつけるんだっていうものではないですね。
瀬川 そうはいきませんね。それだったら、楽だけど。
長谷川 そこで選ばれる色というのはなんなのかっていうのが、またひとつ問題になりますよね。
瀬川 やっぱり、線の考えで進めていくよりしょうがないんだろうね。自然に色彩があるっていっても、よく見てると、なんだか怪しげなんだよね。葉っぱが緑かっていうと、緑じゃないしね。細かく見ていくと、緑じゃ表現できない色彩もあるしなあ。こういうことは、うまく言えないね。ヤマ勘でやってるからね。言葉で考えると、一歩も先に進まなくなっちゃうしね。だいたい、言葉で考えるから、人間の暮らしがおかしくなるんだと、おれは思ってるんだけどね。ヤマ勘で考えた方が、まだ近道だ。そのヤマ勘を自由に野放しにさせるために、言葉を削っているんですよ。言葉で考えるというのの一番きらいなところは、物事を限定しちゃうところ。
長谷川 ある思考を重ねていく時というのは、限定作用をしないと……。
瀬川 それは、科学的な考えだよね。でも、それは、ものすごく間違うかもしれませんよ。誰も分からんもんね。人間をね、ま、人間っていうと大げさだから、ぼくをうれしくさせるかどうか、気持よくさせるかどうか、そこだけがね、判定の基準なの。論理で、いろいろ解明することは、絵かきの仕事じゃないからね。じかにすぐつかみだす。それを間違わないようにすめために、言葉を削っていくわけです。美しいものが本当にあるのかどうかっていうことを実感したいわけ。
長谷川 さっき、文体だと言われたことの意味がそのことなんですね。言葉である対象が限定されていく、され方の呼吸というか、そういうところに、むしろ命の元があるという感じ。
瀬川 うん。簡単に言うと、この文章を書いた人は、感じのいい人か、悪い人か。
長谷川 なるほどね。キザな質問からおもしろい話が聞けた。
瀬川 私はちょっともおもしろくないけどな。(笑)

西遊記◇宇宙全体が模様で占められている
長谷川 瀬川さんの絵を見てると、特に『西遊記』とか、縄文の文様のエネルギーと似たような感じがしたんです。人間は太古から、道具を作ると同時に文様をつけてきたわけですが、人間はなんで、そんなものをつけてきたんでしょう。文様って、不思議ですよね。
瀬川 ああ、不思議なもんだね。このごろ考えてることはね、世界中、宇宙全体が模様で占められてるっていう感じがしてね。このごろ、よく白昼に、無限に変化する模様を見ちゃう。それが単なる幻想じゃないような迫真性で迫ってくる。去年だったかな、それは非常に弱るぐらいで、ついに、おれの頭も壊れるときが来たのかと、びっくりしてね。信大の先生で、時々、飲み屋で会って話をするのを楽しみにしている人がいて、その先生に、その話をしたら、いとも簡単に、「それは正しいですよ」っていうの。高分子やってる人なんだけどね。分子と分子が突起のようなものでくっついていて、それらがものすごくたくさん集まって、立体的に構成されてて、それに影があるわけだから生きて動いていれば、無限の模様が変化するわけ。だから、当り前のことだって、教えてくださったんですけどね。
長谷川 なんか、すごい世界観!
瀬川 だから、どんどん模様をかこうと思ってますけど。若いころ、中国の饕てっ器という祭器の模様に、非常に打たれたことがあるんですよ。出光美術館に、たくさん集められて、その中のひとつにね、風を表現してるなと思った模様があったの。その時、絵をかけるとすれば、これかもしれないと思ったんだけど、それから長いこと気がつかなくて苦労していた。でも、このごろ、そのことと、さっきの分子の話との接点が見つかりそうな感じがしてきたのね。そりゃ、なんになるか分かりませんよ。そういうような所に、ぼくは今、いるな。
長谷川 文様ということで、わたしがよく思い出すのは、イギリスやアイルランドにあるケルト族の文様。千年以上前のリンデスファーンの福音書にある組紐文様なんか見ると、すごいですね。隙間なくびっちり。ここまでやらなくちゃいけない人間のエネルギーってなんだろうって、ため息が出るような気がするんですけれども。
瀬川 やっぱり、生きていくということに、本質的に恐怖があるんじゃないですか、人間は。あそこまでやらんと、その恐怖は埋まらんので、おそらく、やったって、埋まらんだろうけどね。無駄なことするもんだね。

(次頁につづく)

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