長谷川摂子さんと絵本作家

【第10回】松岡享子さん|物語というものは、人間が生きていく上で、どうしても必要なものだと思いますね

松岡享子2遊びに遊んだ中学時代
長谷川 前回に引き続き、中学時代の学校のお話を——。
松岡 校舎も間借り、最初は机も椅子もなく、床に座ってひざの上でノートをとるというような有様でしたからね。授業もまともにないときもあって、私たちは、毎日大きなふろしき包みに人形遊びの道具一式をいれて学校に持っていって、教室の床にそれを広げて、もう遊びに遊んだんですよね。
長谷川 中学の時に、人形遊び?
松岡 そう。(笑)女の子たちは、そうやって人形ごっこ。すると、男の子たちは、それにちょっかいを出したいわけね。初めての男女共学でお互いに意識してるし……。それで、向こうは向こうでチームを組んで、作戦をたてて、私たちの人形を盗みにくるの。こっちはこっちで、盗まれたときは、誰が追いかけて、誰が残りの道具を片づけて……と、これも作戦をたてて待ってるわけ。そうしたら、敵がやって来て人形をとっていく。それっ、と追いかける。それを毎日のようにやってたのよね。
長谷川 幸せな月日でしたね。(笑)
松岡 人形をとって逃げるのは、一番足の速いH君って子でね。当時は物のないころだから、多分お兄さんのお古だったのかな、いつも真黒のダブダブのジャンパーを着ていてね。走るとそのジャンパーが風をはらんで、ブワーッとふくらんで(笑)、それが運動場を横切って、山の方へ逃げていく……。(笑)
長谷川 山が近い所にあったんですか。
松岡 ええ。学校は山の上にありました。校庭の柵を一歩出ると、山ツツジなんかがいっぱいある山でね。大きな木はなかったんだけれど。でも、ちょっと目印になるような、ちっちゃな松の下の根もとに、小石を並べて、秘密の家だなんてね。それから、ちょっと馬の背みたいなかっこうの木の切り株があったんだけど、何人かでジャンケンして、勝った人がそれにまたがって、エジプトでも、インドでも、5千年前の日本でも、2千年先のアメリカでも、自分の行きたいところをいうのね。そしたら、その人が目をつぶってる間に、残りの人が相談して、何とかそれらしい場面を即興で演ってみせる、なんていう遊びもしました。限りある知識を動員して、ことばなんかも、でたらめをそれらしく言ってみせたりしてね。そのうちに校舎もでき、学校も整って、もうそんな馬鹿なことはできなくなりましたけど。だから、ごく短い混乱期に行き合わせたおかげですよね。今の中学生には考えられないことで……。でも、ほんとに幸せでした。(笑)
長谷川 場所はどこですか。
松岡 神戸です。
長谷川 神戸は空襲で、ほとんど焼けましたからね。
松岡 はい。うちも焼けて、それで引越したんです。まあ、大変な時期だったんでしょうけれど、でも、案外のんきにしてましたね。子どもって、苦労を苦にしないってとこがあるから。夏休みなんかもね、毎日毎日、一日海で遊んでね。私はそれで泳ぎをおぼえたんだけど。潮の流れのきつい所だったから、遊んでるうちに流されて、電車の1駅半位も遠くまでいっちゃうのね。でも、夕方、潮の流れが変ってから、またそれに乗って戻ってくる。今なら危いっていって止められるでしょうね。あのころは、相当危いことも平気でやって、のんきなものでしたねえ。
長谷川 私たちの時代でさえも、今とくらべると、それはそれはのんきなものでしたけれど、松岡さんの時は、非常にラディカルに、のんき。(笑)
松岡 おとながあんまりちまちまと子どもの世話をやかなかったし……。
長谷川 そうですよ。おとなが自信をなくしてたというか、どういうふうに子どもを型にはめるかなんていうことは放棄しちゃったというか、そういう感じでしたね。
松岡 親が自信をなくした、というのは、私たちの親よりもうちょっとあとのことでしょうね。私たちの親の世代は、民主主義だの何だのという戦後の新しい動きにはついていけなかった人もいたかもしれないけれど、善悪のけじめとか、生活態度とか、そういう素朴な、基本的なことは、自信もってしっかりしつけたんじゃないかしらね。

◇図書館学科に
長谷川 大学で図書館学を専攻されたわけですが、高校時代から、児童図書の図書館のことを意識的に思ってらしたんですか。
松岡 いいえ。子どもや本に関する仕事をしたいという気持はありましたが、当時は、児童図書館員という職業があることも知りませんでしたからね。大学は、あとで何にでも役に立つだろうというので、とりあえず英文科にはいりました。そこで、卒論のテーマに児童文学をとりあげたんですけど、そのとき使った参考書が、図書館学校の先生が書いたものだったり、図書館協会から出ていたりしたんですね。それで、へえー、児童文学は図書館と関係があるのかなあ、って。不思議に思っていたところ、新聞で慶応の図書館学科の学生募集のお知らせを見たんです。
長谷川 ああそうですか。
松岡 それで、ここでは児童文学を教えてくれるんですかって、聞きにいったんです。そしたら、慶応では、ちょうど渡辺茂男先生がアメリカからお帰りになって、そういう科目を教えることになっているから、といわれて。それで、編入試験を受けて慶応の図書館学科へはいったんです。そこで、この世の中に児童図書館員という職業があるって教えられて、ああ、これこそ私のしたかったことだって。
長谷川 なんか、幸せがずうっと続いているような感じ。(笑)
松岡 ほんとに。そうですよね。ただ、現実には、卒業しても就職口はなかったんです。25年前のことですからね。公立図書館の数は少なかったし、司書として採用してくれるわけではないし。全部の図書館が子どもへのサービスをしているわけではなし。よしんば図書館にはいれても、ずっと子どもの仕事ばかりやれる見込みはないし。
長谷川 図書館が変わってきたのは、1970年以降ですものね。それでは、卒業なさってからは?
松岡 図書館学科の図書室で働いていました。行く所がないから。その間にすすめて下さる方があって、アメリカに留学したんです。いろんなめぐり合わせがあったんですね。第一、父の転勤で東京に出て来ていなかったら、慶応の図書館学科の学生募集の広告を見たかどうかもわかりませんしね。学校自体も、今のように情報とか何とかでなく、公共図書館とか社会教育とかが中心でしたし。学生も、私のように編入した人が割に多くて、年齢も上で、いろんなバックグラウンドをもった人がいましたね。先生に質問するのに、直立不動で「教官殿ッ」っていったりする軍隊気分の抜けない人がいたり。
長谷川 アメリカの図書館は、どこに、何年ぐらい?
松岡 学校はミシガン州のカラマズーという町に1年。そのあと、ボルチモアの公共図書館に、インターンのような形で就職して1年です。当時は、アメリカの公共図書館がとてもいい活動をしていた時期で、そのときに行き合わせたのも幸せなことでしたね。
長谷川 私も石井桃子さんの『児童文学の旅』を読んでうたれたんですけど、子どもは良い本を読むべきで、おとなは良い本を選ぶ目を持たねばならないという圧倒的な信念が、アン・キャロル・ムーアさんたちにはあって、当時アメリカにはそんな積極的な雰囲気がみなぎってたみたいですね。松岡享子3

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