長谷川摂子さんと絵本作家

【第4回】林明子さん|理屈じゃなくて、体の毛穴で感じられるような絵をかきたい

1986年4月から3年にわたって「こどものとも折り込み付録」にて連載された、故・長谷川摂子さんと13名の絵本作家の対話の記録を、1年間にわたって再録してお届けします。第4回は、『はじめてのおつかい』や『あさえとちいさいいもうと』、『くつくつあるけのほん(全4冊)』などで、知られる林明子さんです。
オレンジ罫線2はじめてのキャンプ
小さな心が感じるものの大きさを…

◇懐かしい小さい頃
長谷川 林さんが小さかった頃のこと聞かせてください。
 一番小さい頃で、覚えているのは、おんぶの感じかな。母が背中の私に話しかけながら、下駄を履いて歩いているんですね。その下駄の、カラン、コロンという響きと、母の声が、耳からだけじゃなくて……。
長谷川 おなかから聴こえる?
 ええ、母の背中から響いてきて、私の胸やおなかに伝わってくるんです。それがとても心地よくて、今でもうっとり思い出すの。
長谷川 そんなこと覚えてるなんてうらやましい。
 懐かしいのは、洟をたらしてても全然、恥ずかしくなかった頃の自分なのね。袖でふいて、スカートになすりつけたりして。道でおしっこをするのも平気だったのに、ある晴れた日、突然、している最中に恥ずかしくなったのが、きっと最後。
長谷川 林さんの『はじめてのキャンプ』の底抜けの楽しさ、なほちゃんの無邪気なおしっこのポーズ、思い出します。それから「わたし、できる」というなほちゃんの自己主張の強さも。
 本当に、遠慮、というのは、いつ頃から自覚するようになるんでしょうね。……小学校一、二年の頃、学校のトイレが嫌いで、入る時は、スカートで鼻をおさえて、息をしないようにしていたの。だから、おしっこをがまんしていることが多くて、漏らないように、スカートの上からおさえて帰ってくるのを、隣の男の子が見ていて、「アコちゃんが、お尻をいじってた」って母に言いつけたんですね。母は、とても心配したんだと思いますが、「お尻をいじってると、おチンチンが生えてくるよ」って言ったんですね。それからの私の心配は大変なもので、お尻をていねいにふいたり、洗ったりできなくなってしまって。怖かった。
ケストナーが、悲しみの感情は、内容ではなくて、大きさが問題なんだと書いているんですが、本当にそうだ!よく言ってくれた、とうれしかった。今思うと、どうしてあんな事が辛かったのか、あんな事が怖かったのかと言える事でも、その大きさだったら誰にも負けないという感じですものね。子どもの感受性というものは、自分のことを思い出すだけでもゾッとするほど強いでしょう?
長谷川 保育園に勤めてた時に、いつもはとても元気な五歳の女の子が、一日中、シクシク悲しそうに泣いてたの。迎えに来たお父さんに聞いたら、「ゆうべね、人間はみんな死ぬんだと言ったら、それがひどくこたえたらしいんです」って。私、その子の泣き顔が忘れられない。

◇心が安まらなかった日々
長谷川 それから、もっと大きくなって、高校生ぐらいの時の林さんは?
 ドストエフスキーの読者でした。
長谷川 ああ、私も夢中になって読んだ。
 高校の社会科の先生が、授業中すぐまっ赤になるんです。とても正直な若い先生だったんですけれど『白痴』のムイシュキン公爵と結びつけて、ひとりでそう思っていたり。ドストエフスキーの登場人物って、しょっ中恥ずかしがって、顔を赤くするんですね。ちょうど高校の頃、赤面恐怖症だったみたいで……、よく赤面恐怖症、対人恐怖症と書いたビラが貼ってあって、あればっかり目についちゃうんですね。
長谷川 ええっ! そんなだったんですか。
 そうなんです。だからドストエフスキーを読んで、あ、ロシアの人も日本人と同じだ、と思って、救われた。
長谷川 ドストエフスキーって、そういう感覚にすごくたけてるというか、『貧しき人びと』なんかは、もうそういう感覚だけで書いてるような……。
 私、『貧しき人びと』の中で一番好きな場面があるんですけれど……。胸のボタンが落ちたところ。身分の低い貧しい男が、閣下の御前に出た晴れの、大切な時に、胸のボタンがとれて落ちてしまう。広い静かな部屋をボタンは無情にも、コロコロと閣下のすぐ前にころがっていって、すっかりあがってしまっている男は、のこのこボタンを拾いに行くのね。そして、事もあろうに、ニヤニヤしてしまう。その薄笑いを内心でとがめている悲しさ。その上、拾ったボタンを元の胸につけようと、閣下の前で絶望的な動作を繰り返してしまうんです。この人の気持は、我が事のように、びんびん伝わってきて……。高校生の頃は、自意識過剰というか、自分が相手にどう思われるかばっかり気になって、心が安まらなかった。
長谷川 林さんにはそういう繊細な面と、さっきのちっちゃかった頃の遠慮のない率直な感じと、両方あるんですね。そう考えると『はじめてのおつかい』のみいちゃん、そっくり。
 私、『はじめてのおつかい』の原稿もらった時、これは自分のことだと思ったんです。
長谷川 筒井頼子さんとのコンビはほんとに奇跡的―筒井さんの微妙な内面性が、林さんの繊細さと響き合って、林さんの絵に結晶してるって感じ。私、いつも、林さんの絵を見て、どうしてこんなに、みいちゃんやあさえちゃんに、もう、どっと、押しよせるみたいに林さんが感情移入できるのか、不思議だったの、謎がとけた。

◇ドストエフスキーの中の子ども
長谷川 ドストエフスキーの小説には、いろんなところで子どもが出てくるでしょう?
 ほんとうに、お話と関係なく、子どもの描写だけ思い出したりして。
長谷川 そうそう、エピソード風に。『白痴』の中で、男にだまされて、村八分にされているような貧しい娘がいて、ムイシュキンがその娘を哀れに思って、いろいろやさしくしてやる話の中に出てくる子どもたち、すごく印象的。子どもだけがムイシュキンの行為を理解してるの。その心の交流みたいなのがこの世のものと思えないほどきれい。だれも子どものことを書くように要求したわけじゃないのに、どうしても子どもに関わってしまう。子どもという生き物の魂のありようみたいなものにはじめから共感してしまうというか……。
 そう、ほとんど尊敬しているという感じで。
長谷川 ドストエフスキーが一番悪みたいなものを考える時に赤ん坊を殺す場面が出てくるでしょう? 善とか悪とか考える時に、子どもというのは一番関わっていたんじゃないかって。
 どの話だったか、子どもを折檻してトイレに閉じこめる親について、あの暗くて臭い所に子どもを閉じこめる権利は誰にもないということを一生懸命書いてるのね。その苦しさは、大人が考える以上に子どもにとって不幸なんだからって。
長谷川 魂の一番尊いところに子どもがいて、自分を一番苦しめることは、その子どもとの緊張関係の中で起こることなのよね。『カラマーゾフの兄弟』の中でアリョーシャが出会う少年たち。石の投げっこしてケンカしたり、犬をいじめて苦しんだりする中で、結局、病気で死んでいくイリューシャって子どもの魂に、みんなが心を寄せていくようになる。私、あの少年たちのこと思い出すと、あれ、絶対、ドストエフスキーは児童文学者だという気がしてくるの。
 ほんとにすっかり子どもの立場になっちゃうんですものね。

はじめてのおつかい

(次頁につづく)

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