長谷川摂子さんと絵本作家

【第2回】堀内誠一さん|絵本の絵っていうのは、子どもの魂を引き上げることができなきゃね

1986年4月から3年にわたって「こどものとも折り込み付録」にて連載された、故・長谷川摂子さんと13名の絵本作家の対話の記録を、1年間にわたって再録してお届けします。第2回は、『ぐるんぱのようちえん』『こすずめのぼうけん』『くろうまブランキー』などの多彩な表現の絵本を子どもたちに残した堀内誠一さんです。
オレンジ罫線2 horiuchi_1”絵本”への船出
◇絵本という新大陸へ
長谷川 茂田井武や小山内龍など、1940年代に絵本の仕事をした人たちが、瀬田貞二さんの『絵本論』に紹介されていますが、そういうのを読むと、この人たちが絵本をつくる時の姿勢には、たいてい反アカデミズムがありますね。生き方にもデカダン的な雰囲気が感じられるし、子どもと繋がるのも、そういう社会的な屈折感をくぐりぬけて繋がっているという印象を受けるんですね。
ところが1956年に「こどものとも」が初めて出版されて、ここで戦後の日本の絵本の歴史が始まる。この頃絵本をつくりはじめた堀内さん、長新太さんなどは、茂田井さんたちにくらべて、子どもとの繋がりに屈折がないというか、ひじょうにこだわりなく、ストレートに絵本をつくることに飛びこんでいかれたような印象を、私は受けるんですけど、そのへんについてどのようにお考えですか。
堀内 そういうことは、作家たちの資質もあるでしょうが、やはり時代の状況が強かったのでしょうね。日中戦争(1937年)までは、退廃的とまではいかなくても、何かが変わらなきゃしょうがないというような、当時の映画監督の山中貞雄が「『人情紙風船』が遺作じゃ、少しかわいそうです」と言い残して戦地へ行っちゃうというようなね、やむをえずにしても何でもいいから自分の身を任せちゃうみたいなことがあって、一方には子どもの仕事をやることで自分の行き場のない生活を浄化されたものに繋げるという人たちがありますね。
長谷川 茂田井武さんの仕事には、どこか救済感がありますね。
堀内 茂田井武は、日中戦争中、派遣軍の報道部員として、広東に一年滞在していますが、そこでむこうの子どもたちに絵を教えたりしてる。そういうことが、自分たちのやっていることの救いだったんじゃないんですか。一つぐらいいいことができるのを見つけて。そして帰国後、それまでの放浪生活とは縁を切って、彼の最初の、子ども向けの絵本を作りました。だからあの人は最後まで、世界の子どもたちがみんな手をつないでみたいな、哀しいとも楽天的ともいえるような理想主義を持ってたでしょう? そこんところが残念ですよね。もっと面白いものをつくれる人なのに、ちょっと先へいくとすぐに世界子ども連邦みたいなものが出てきちゃう。『三百六十五日の珍旅行』(1948年)にしてもね。それは悲しい時代というのを引きずっていたからそうなんですね。戦後の日本はちょうど満身創痍のライオンが、やっとこう前足を伸ばすぐらいの時だったから。
福音館で絵本を始めた時代というのは、これから発見して開拓するいろんな大陸がある時代だった。グラフィックデザインだとか都市計画だとか。その一つに、絵本っていう大陸があって。ぼくなんかは、そこへ船出してゆくオンボロ帆船の少年水夫って感じでね。でも航海長に瀬田さんがいたっていうわけで。明るいっていえば明るい時代でしたよね。

◇焼け跡の風景
堀内 実際、焼け跡っていうのは明るくてね。賢治の『雪わたり』のように、ふだんは道のないところも、どこへでも歩いてゆける-ファンタスティックな雰囲気が全体に漂っていた。遠くまで見えるしね。だから焼け跡派といわれた野坂昭如にしても、焼け跡っていうのは、暗くは描いてないでしょう?
長谷川 焼け跡と堀内さんといえば、『父の時代・私の時代』(マガジンハウス)にあったエピソードは忘れられませんね。少年の堀内さんが空き缶に絵をかいて、東京土産にして上野駅で売ってらした話。
堀内 進駐軍が捨てた水筒型のカンビールに模様を描いて、ヒモをつけて水筒にしてね。あの頃わりとヒモって売ってたのよね。軍靴の靴ヒモかなんか知らないけど、そういうカンを首からいっぱいぶら下げて上野駅で売ってると、復員兵なんかが買ってくれた。
長谷川 戦後の旗手としての堀内さんのイメージがくっきり浮かびあがる話ですね。ドラマチックで焼け跡の夕焼けが見えてきそう。ベッティーナの本に出てくる少年と堀内さんが重なったりして。
堀内 上野駅の地下道にはいっぱい浮浪児がいた。浮浪児っていうのは、たいてい親がいないから浮浪児になってるんだけど、うらやましかったんだよね。仲良くなって、よく上野で夜明ししたりしましたよね。

◇絵本の状況
長谷川 今の日本の絵本の状況は、船出の時期とは違って、いろんな要素が入ってきていると思うのですが。
堀内 子どもの本の多様な性格を考えると、あれもやんなくちゃ、これもやんなくちゃと、すべてやってたんじゃ一生かかってもたいへんだと思ってたけど、それぞれ分担をする人が出てきたから、ずいぶん肩の荷がおりたというか、楽になりましたね。 例えば、生活もの、幼稚園ものとかは、こういうふうに表現しなくてはいけないと思ってたのを林明子さんがちゃんとやってくれたり、何年も地道な取材と観察を重ねる仕事をする人が出てきたり。
もちろん昔から引き続いて、あってもなくてもいいようなものっていうのは多いですよね。まあ、しょうがないですね。これで食おうっていう人がこれだけいて、とにかくやんなくちゃいけないんだし、よくないものをよくないっていってみたってね…。

◇好きな絵
長谷川 いろんなところでお書きになっている堀内さんの絵についての話をとても興味深くよんだのですが、美術の歴史の上で、ご自分の仕事に近いと思われるのはどんな仕事ですか?
堀内 文学だと、これが絶対ということになったりするけど、絵っていうのは、ラスコーの壁画からはじまって、あれもよしこれもよしでね。若いころ直接影響を受けたというのは、やっぱりピカソを含めたエコール・ド・パリの人たち、モディリアニ、スーチン、バスキン…。ただまあ、ルノアール、ボナールっていうのが一番好きだったのかなあ、テーマがね。アンティームな(親しみやすい)、ただテーブルにランプが一台あって、子どもが本読んでるみたいなね。そういうのが好きだったですね。それからカンディンスキーの初期の童話的な世界。シャガール、クレー。体質的にはデュフイみたいに、こってり描かない、すばやい絵ってのが憧れだったですね。
デュフイはデッサンの名手ですが、海水浴場で子どもが駆けだしてくる所をパッと描こうとして、描く間に子どもがいなくなっちゃう。そこに子どもが着てたブルーの水着のようなものの印象だけが残った。そこにデュフイは青をのっけるんですけどね。色ってのは、必ずしも形に付属しないで、印象として存在する。形とか物とかが実在するとすると、色ってのは、それに対する思い出とか、よろこばしさとか、何かオマージュとして存在するっていうようなことを言ってるんですね。
「やっぱり生きる喜びっていうのを、絵描きがそれぞれどういうふうに描くかってことだと思うんですよね。生きる喜びってのがなかったら、絵なんか必要ない、描かないんじゃないかな、そもそもの動機としては。」
絶望的な絵もありますけどね、結局どんな絵でも味わって見るべきなんですよね。これしか認めないというのが一番いけないと思うんだよね。そんな人いまやいないだろうけど。

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(次頁につづく)

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