母の友タイアップ「こどものとも」の礎を築いた作家たち

田島征三さんと『ふるやのもり』

01絵本『ふるやのもり』は、田島征三さんにとって、出版社から刊行された最初の作品です。児童文学者、瀬田貞二さんが再話した日本の昔話の世界を田島さんが絵で表しました。
老夫婦が暮らす家に泥棒とオオカミが忍びこみます。そうとは知らないおばあさんが「泥棒よりもオオカミよりも“ふるやのもり”がこわい」と言いました。ふるやのもりとは、古い家の雨漏りのこと。しかし泥棒とオオカミは「おそろしい化け物」かと勘違いし……。
物語の展開も楽しいですが、ページをめくるたび驚かされるのは、絵が持つ圧倒的な力です。泥棒やオオカミの驚く顔、逃げ出す彼らの疾走感。1960年代の絵本の世界において、田島さんの画風は画期的であり、大きな衝撃を与えました。
それから半世紀。当時のことを田島さんが、にこにこと笑顔を浮かべ、ひょうひょうとした語り口で教えてくれました。

――今日は『ふるやのもり』の話を聞かせてもらいにやってきました。まず刊行の経緯を教えていただけないでしょうか。
田島さん 経緯? うーん。きっかけはケンカだった、ということになるのかな。

――ケ、ケンカ?
うん。ぼく、美大で図案科、今でいうデザイン科にいたんです。それで学生時代から、大手の広告代理店で実習生として働いていたの。でも、本当は絵描きになりたくてね。高校時代も美大に行きたいと思っていたんだけど、親父は「絵では食えないぞ」と反対していた。でもあるとき、「商業デザイナーは儲かるらしい」とどこかで聞いてきたみたいで、図案科になら行っていいぞ、と。でも本心は絵描きになりたいから、大学では油絵科にもよく顔を出していましたよ。

――それでも広告代理店で実習生になるということはデザインの勉強も……
入学の時点ではデザインのことなんか何にも知らなかったからね、一年生のとき、先生にこっぴどく怒られたの。で、「くそっ、今に見てろよ」と思って、一生懸命やっていたら成績がトップになっちゃった。それで、代理店の実習生にもなったんだけど、ある会社の宣伝ポスターを作ったら、課長に呼び出されてね。「これはきみの宣伝であって、会社の宣伝じゃない!」って言うんだよ。ぼくも「企業の宣伝をするためにデザイナーになったわけじゃありません!」なんてたんかを切ってやめちゃった。今から思えば、広告デザイナーというのは、企業の宣伝が仕事なのに、ぼくの言い分はかなり矛盾してますよね(笑)

03――若さゆえ、だったのでしょうか……。
大学の恩師が見かねてね。「広告じゃない道で食べていける道を探ってみなさい」とあちこちに紹介状を書いてくれたんです。
ぼくは学生時代に『しばてん』という絵本を自主制作で作っていました。それを持って訪ねたひとりが、イラストレーターの和田誠さん。『しばてん』を気に入ってくれて、児童文学作家の今江祥智さんにも手渡してくれたんです。そしたら今江さん、電車の中で読んで、思わず泣いてしまったんだって。それで和田さんが今江さんのところにぼくを連れていってくれた。今江さんには本当にお世話になりました。人情に厚い人でね。ぼくは大学を出てからも就職せずに絵を描いていました。お金はなかったけど結婚もして、夫婦で貧乏生活を送っていたの。今江さんの家の近所に引っ越していったので、よくぼくらのことを心配してね、「生きてますー?」なんて言いながら肉や野菜を抱えてやってきては、料理を作ってくれました。
その今江さんから、当時、「こどものとも」の編集長だった松居(直)さんを紹介してもらったんだね。えっと……話が長くなっちゃったけど、つまり広告代理店の課長とケンカをしていなかったら、絵本の道には来ていなかったかもしれないわけです。

――今江さんと松居は大学の後輩、先輩だったそうですね。今江さんは福音館書店の社員だったこともあると聞いています。
らしいね。ぼくが出会った頃はもうやめていたと思う。ともかく、それで「こどものとも」の松居さんと会うことになってね。すぐに、というわけにはいかなかったけど、日本の昔話に絵を描いてみませんか、ということになったんです。

――『ふるやのもり』ですね。絵本として画期的な画風で、当時大きな反響があったとか。
そうだね。うれしかったのは、瀬川康男さん、長新太さん、赤羽末吉さんといった錚々たる絵本画家が「おもしろい」とほめてくれたこと。衝撃だったみたい。
でも、本は売れなかったな。アートもそうだけど、世間に衝撃を与える作品って、発表当時は売れないもんね。本屋さんに行ったら、『ふるやのもり』が積んであって、しばらくこっそり見てたんだけど、だあれも買っていかないの。
また別の日、今江さんが「田島さーん、こんなん出てるでー」と血相を変えて持ってきたのが幼稚園の専門誌のような雑誌でね。『ふるやのもり』の書評が出てたんだけど、読んだら「絵本という美しい花園を、芸術家のエゴという泥で踏みにじることは辞めて欲しい」って。

02――そ、それはショックですね……。
うん、落ち込んだ。でも、数時間したら、もっとすごい絵本を作ってやるぞ、「やっちゃるぜよ」と思ってましたけどね。

――あの……『ふるやのもり』の絵を描くとき「芸術家のエゴ」はあったんでしょうか。
それはあったよ。当時は「自分らしい絵」ということを絶えず考え、模索していたからね。ただ「自分の絵=こういう画風」とイメージが固定しちゃうのもイヤでね、どんどん画風を変えていった。でもあるときから「自分らしい絵」ということにはあんまり興味がなくなったの。

04――あるとき、というのは?
『はたけうた』(「こどものとも」1985年9月号)を描いたときだね。それまでのスタイルを捨てて、だれでも描けるような抽象的な絵で描いた。

――それは芸術家のエゴがなくなった、ということなんでしょうか?
いや、それは違う。「ぱっと見の個性」とかは、別にいらないなって思うようになったんだけど、それは「自分が描いた絵はすべての自分の絵だ」と思えるようになってきたからなんです。エゴって自我のこと、つまり自分のことでしょう? つまり、ことさらに意識しなくても、自分を表現した絵が描ける、と自信がついてきたんです。そのうち、絵の具を用いなくても絵は描ける、と思って、今度は木の実の絵本を作ったりするわけです。
05

……インタビューの続きは「母の友」12月号に掲載しています。あわせてお楽しみください。

たしませいぞう
1940年大阪府生まれ。高知県で育つ。多摩美術大学図案科卒。紹介した以外にも『ちからたろう』(ポプラ社刊)や『とべバッタ』(偕成社刊)、『こやぎがめえめえ』(福音館書店刊)など多数の作品がある。現代美術作品も手がける。

写真・浅田政志