母の友タイアップ「こどものとも」の礎を築いた作家たち

中川李枝子さんと『そらいろのたね』

0084.IN02中川李枝子さんは累計100万部を超えるロングセラー絵本『ぐりとぐら』の作者です。『ぐりとぐら』も、もとは「こどものとも」の一冊(1963年12月号)でした。
『そらいろのたね』は、『ぐりとぐら』のわずか4ヵ月後、「こどものとも」64年4月号として刊行されました。こちらも、現在も版を重ねる人気作。児童文学者、石井桃子さんも高く評価していたそうです。
この2作品は、中川さんが当時働いていた保育園で経験した出来事から大きな影響を受けているのだとか……。

――中川さんは『ぐりとぐら』や『そらいろのたね』を書いた頃、東京、世田谷区にあった私立の無認可保育園で働いていらしたのですよね。
中川さん
 ええ、みどり保育園。園長と私、先生2人の小さな園でね、私は最初から主任保育士という条件でした。

――園で毎日働きながら、物語の執筆をするのは、たいへんだったのでは?
たいへん、というほどのことはなかったですよ。なぜって作家になる気がなかったからです。お話を書くのは、書きたいときだけ。無理はしていません。それより園で子どもと全力で向かい合うことに精一杯。園長先生から受けた大事な使命を果たすのが第一課題ですから。

2――その園長先生は、昨年度まで「体のはなし」を連載してくれた天谷保子さんですね。どんな使命だったのですか?
初対面のとき、天谷先生に「子どもが全員、喜んで園に来る保育をしてね」と言われました。つまり、ひとりも欠席をしない保育ってこと。これが、なかなか難しい! 私が働き始めたのは1955年です。みどり保育園は駒沢公園、41万平米の広大な野原の片隅にぽつんと建つトタン屋根の長方形の小屋でした。親が送り迎えをするわけでもなし、子どもは「おもしろそうだから行ってみるか」ぐらいの気持ち。だって野原は十分楽しく、勝手に遊んでいれば満足するんですから。そんな子どもに「全員、喜んで来ていただく」ためには、どうしたらいいのだろう。そこでまず一日、じっくり子どもの様子を観察しました。

――結果はいかがでした?
子どもたちは実によく遊ぶ、ということがわかった。そして、お互いに遊びながら育っていくのだということも。遊びは、体をつかって、頭をつかって、心をつかう。みんなで遊びを楽しむためには、知恵や心配りが必要なの。そうか、遊びは成長のもとなのだ。保育士の仕事は、子どもをたっぷり遊ばせることだと私は教えられたのです。それから、遊びには想像力が大切と知りました。想像力が豊かな子は、自分で遊びを生み出せるのよ。そうでない子はマネをしてばかり。じゃあ、想像力を豊かにするには? 本だ! そこで私は「母の友」の童話を……。

4部屋に飾ってあった「ぐりとぐら」の人形

――「母の友」をお持ちだったのですね!
天谷先生が愛読者でしたから。みどり保育園には創刊号からありました。その頃の「母の友」には「一日一話」といって毎号、短いお話がたくさん載っていたの。ほかにも保育関連の雑誌はありましたけど、天谷先生が、「母の友」が一番内容がよい、ととっていらした。それから、あれは1956年のことだったのかしら、ある日、私が外で子どもと遊んでいたら、セールスマンふうの男性と、天谷先生の話し声が聞こえてきたの。「これまで、一つのお話だけでできた月刊絵本がないのが不思議だったのよ」って。男性は福音館の販売代理店の人だったみたい。それから「こどものとも」もとるようになった次第です。よく読みました。

――その頃は、自作のお話を書こうとは思っていなかったのですか?
思ってもみなかった。私が書くようになったのは、本当にたまたまなのよ。新聞に、岩波書店の編集者いぬいとみこさんのことが載っていたの。私の大好きな岩波少年文庫の編集をしていると知って、手紙を出したら、お返事をいただいた。そこからご縁ができて、保育園で働き始めた頃、いぬいさんから児童文学の同人誌「いたどり」の仲間にならない? とお誘いを受けたの。私はいぬいさんのそばにいられればそれでよかったのに、同人になったら、書かないわけにはいかないでしょう。困っちゃった。そこで、一番身近な園の子どもたちをモデルにして書いてみたの。そうしたら同人仲間の、やさしくも厳しい先輩方から「おもしろいけれど、これは生活記録であって、作品ではない」と言われてね。でも、どうやったら「作品」になるかがわからない。とにかく何度も何度も書き直して……それが『いやいやえん』になりました。先輩方に感謝ね。

U0010-9――『いやいやえん』が「いたどり」で発表されたのは1959年でしたね。それから3年後、福音館書店から単行本として出版されることになります。
「いたどり」に載ったとき、松居さん(当時の「こどものとも」編集長)が読んで下さった。当時、松居さんは石井桃子、瀬田貞二、渡辺茂男、そうそうたる児童文学者の方々と子どもの本研究会を開いていらして、そこで『いやいやえん』を取り上げてくれたらしいの。そして、石井桃子先生が編集を引き受けてくれることになり、出版のはこびとなったのです。私はもともと石井先生が手がけた岩波少年文庫を読んで育ったのですから、大感激でした。保育園でも、岩波の子どもの本(『ちいさいおうち』など)を天谷先生に全部買ってもらって子どもたちと一緒に楽しんでいましたしね。本の四角い角が丸くなるまで何度も読みました。

――石井桃子さんからのアドバイスはありましたか?
『いやいやえん』が出た後で、「出版界はチミモウリョウの世界です。気をつけなさい」とご助言をいただきました。ですから、いろんな会社から執筆の依頼が来ても、受けないようにしていました。それに、さっきも言いましたが、保育園の仕事で手一杯でしたしね。ただ、依頼のおかげ、ということもあります。『ぐりとぐら』も『そらいろのたね』も、もともと「母の友」の童話コーナーのために依頼を受けて書いたものですから。

3――『ぐりとぐら』は「母の友」掲載時は『たまご』というタイトルでしたね。63年6月号。『そらいろのたね』は同年10月号の掲載です。
どちらもみどり保育園での体験が基になっているんですよ。『ぐりとぐら』は天谷先生があるとき園でホットケーキを焼いたの。そしたら、子どもたちが大喜びしてね。よし、私は負けずにもっとすごいおかしを、と思って、カステラが出てくるお話を書いたの。

――『そらいろのたね』はどんな体験が?
あの頃、東京オリンピックがあるからと、みどり保育園が駒沢公園から引っ越ししなくちゃいけなくなったの。でも、そう簡単に移転先なんか見つからない。保育園をたたもうか、という話もあって、困ったな、どこかに大きい土地と家があればいいのにな、といつも思っていたの。天谷先生ががんばって、新しい場所を見つけてくれたんだけど、あのときは本当にたいへんだった。それから私、たくさんの子どもたちが一緒に暮らす、大きい保育園に憧れがあったのよ。幼い頃にいろいろなタイプの子と出会うことは大切だと思うの。自分と似たような子とばかり遊んでいると世界が広がっていかないじゃない? それで、思いついたのが『そらいろのたね』という話だったというわけ。

……インタビューの続きは「母の友」6月号に掲載しています。あわせてお楽しみください。

なかがわりえこ
1935年北海道生まれ。紹介した以外の作品に『くまさんおでかけ』(絵・中川宗弥)や『はねはねはねちゃん』(絵・山脇百合子)、幼年童話『ももいろのきりん』(絵・中川宗弥)、エッセイ集『絵本と私』(全て福音館書店刊)などがある。

写真・浅田政志